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慈眼寺について

縁 起

慈眼寺は高野山真言宗に属し、本尊は聖観音様です。
正式名称は華敷山(けふさん) 補陀落院(ふだらくいん) 慈眼寺(じげんじ)と申します。
華敷とは、春の庭に垂れた枝に咲き競う桜の華が、地面までも敷きつめる姿を。
補陀落とは、観音様の住まわれている場所、浄土のことを。
慈眼とは、観音様の慈悲の眼が凡ての人々の上にそそがれていることを表しています。

歴 史

◇開 創

慈眼寺は天平年間(729-749)聖武天皇の御宇、華厳宗の祖である奈良東大寺の初代別当良弁(ろうべん)僧正による開創と伝えられています。また、真言宗の宗祖・弘法大師さまも東遊の砌に当寺に立ち寄られて護摩を修法され、その際の炉石が大師堂西側に今も残されています。
その後600年の歴史は詳らかではありません。

◇中興開山 乗弘大徳

ちゅうこうかいざん じょうこうだいとく

時を経て南北朝の時代(1336-)筑紫(現在の福岡)出身の真言宗の僧、乗弘大徳が諸国巡錫中にこの近くで休まれていたところ、夜半に寺の南方の塚が光り輝いていることに気付き、翌朝、里人と共にそこに登ってみると、その山頂の大きな岩の上に聖観音様の厳然たるお姿を発見されました。大徳は里人と共に歓喜してこの尊像を寺の本尊としてお祀りし、この地に留まられて境内にしだれ桜を植え、ここが仏教を広めるのにふさわしい地であれば、大いに繁茂して美しい花を咲かせるだろうと祈念されました。また、この桜と一緒に大徳は高野槙(観音堂西)と菩提樹(本堂西)も植えられ、共に現在樹齢は600年を超える巨木となっています。

時の将軍足利尊氏は乗弘大徳が九州におられた頃から深く帰依され、大徳がこの地にいらっしゃることを聞き、文和元年(1352)、戦で亡くなった敵味方の菩提を弔うため、厳命をもってこの場所に千基の五輪塔や各種堂塔を建立して伽藍を整備し、大徳を慈眼寺中興第一世とされました。
乗弘大徳は四十年の長きに亘り在職され、その間、尊氏の庇護、寄進により慈眼寺は整備拡充され、由来書に依れば「慈眼寺を当国古義真言宗一派の法務(取締り)とし、観音堂、聞持堂、御影堂(大師堂)、二重塔、鐘楼、鎮守、三門等を調え、脇坊十二、末寺八十余にして関東の高野と称す云々」と記されるほどでした。大徳は明徳四年(1393)8月9日に遷化され、そのお墓は大師堂西の歴代住職墓所に祀られています。

◇大徳以降の慈眼寺

慈眼寺はその後、約150年の星霜を経て仏閣、僧坊が退廃してしまいます。
これを案じた関東管領上杉顕実(足利義綱:?-1515)は財を投じてこれを修復します。また、第十五世惠胤は関東管領上杉憲政(1523-1579)の連枝(兄弟)であり、その威風は東国にふるい関東に名声高しといわれ、慈眼寺は再び興隆します。しかし、天正十五年(1587)正月十六日に兵火に遭い、堂宇、宝物類はことごとく焼失してしまいます。

その後、慶長十四年(1609)に徳川幕府より『関東真言宗古義諸寺家中法度』が発布され、各地域の中核寺院において法談(仏法についての僧侶の学習会)を年に夏冬二回実施することとなり、西上州においては慈眼寺がその法談所になり、約40年間実施されました。その後、夏期だけを常法談所の慈眼寺にて、冬期は養報寺(同市倉賀野町)以下十八カ寺の法談所で行われるようになり、これは幕末の文久三年(1863)まで続いたことが記録に残されています。

慶安二年(1649)第二十世乗賢の代、正月に前橋城主酒井河内守忠清公花押直判の寺領三十石の添状を賜り、重ねて同年八月には徳川三代大猷院(徳川家光)より寺領三十石の朱印を賜ります。また、寛文十三年(1673)第二十四世良弘の代、高野山無量壽院實秀師は西上州各寺院に宛てた『上野国真言宗古義一派廻文』の中で西上州古義真言宗一派においては従前通り慈眼寺の支配とする旨と、灌頂※を行うのは慈眼寺に限り、他の寺院では出来ないと記しており、慈眼寺が西上州の中心寺院であったことが伺われます。
※灌頂とは一人前の僧侶になるための最高の儀式で、慈眼寺には貞享三年(1686)から元治二年(1865)までの灌頂の記録である「灌頂僧名帳」が残されています。

享保十一年(1726)の境内地建物絵図によりますと、当時の慈眼寺境内地は南北三百間(約540m)、東西百間(約180m)、総坪数三万坪、本堂、庫裡、弥陀堂、観音堂、虚空蔵堂、大師堂、熊野権現、五社明神、二重塔、鐘楼、大門、長屋門、土蔵、下屋、この他に十二坊と併せて二十六の堂宇がありました。残念ながら、寛政元年(1789)正月晦日、第三十四世良意の代に火災に遭い堂塔客殿などを焼失していますが、その後、本堂は同六年(1794)に再建され、文政元年(1818)第三十六世良恵の代には現存する大門が、天保十二年(1841)第三十七世覚信の代には鐘楼が建立されました。

◇近世から現在

明治十六年(1883)に弘法大師千五十年御遠忌記念として、高野山円通律寺栄厳和上(1814-1900)を大阿にお迎えして結縁灌頂※が執り行われ、多くの檀信徒が入壇したことが記録されています。また大門の山号額「花敷山」はその際に和上より揮毫頂いています。
※結縁灌頂とは檀信徒の皆様と仏様とのご縁を結ぶ密教儀式で、現在も高野山金堂で毎年春と秋に行われています。

現在、慈眼寺には本堂、鐘楼、観音堂、大師堂、弁天堂、大門、四脚門、冠木門が建てられており、本堂は昭和五十八年第五十二世良雄の代に落慶、庫裡・客殿は平成十三年第五十三世良弘の代に建立しています。観音堂、大師堂は共に詳細不明ながら元禄年間の建立、弁天堂は平成二十五年の再建となります。天保十二年建立の鐘楼は東日本大震災により亀裂が入ってしまい、平成三十年に檀信徒の皆様の寄進により再建されました。かつての梵鐘は昭和十九年に大戦の為に供出してしまいましたが、昭和五十年に再鋳され、今なお地域の人々の時報として毎日三回、朝昼晩と鳴り響いています。

◇年 表

天平年間(729-749)奈良東大寺の良弁僧正により開創
文和元年(1352)筑紫の人、乗弘大徳により中興開山
しだれ桜、高野槙、菩提樹等植樹
明徳四年(1393)乗弘大徳遷化 8月9日
大師堂西の歴代住職墓所に墓石あり
応永年間(1394-1428)大師堂参道西側に五輪塔、宝篋印塔群建立
天文二十二年(1553)大師堂参道東 輪廻塔建立 3月8日
天正十五年(1587)兵火のため本堂諸堂宇、宝物類悉く焼失 1月16日
寛永十四年(1637)江原源左衛門重久逆修塔建立 4月14日
その後、正保四年(1647)に逝去
慶安二年(1649)前橋城主より寺領三十石、徳川家光公より寺領三十石の御朱印を賜わる 二十世乗賢代
延宝元年(1673)隠れキリシタン墓石 7月29日
昭和初期に観音堂西へ移転
元禄初期(1688-)大師堂建立
観音堂建立 昭和三十一年解体修理
元禄六年(1693)観音堂前 石灯籠建立 上滝村寄進
元文元年(1736)忠霊塔裏 地蔵尊建立 上滝村講中
明和七年(1693)本堂前 宝篋印塔建立 三十三世良猷代
寛政元年(1789)本堂諸堂宇焼失 1月30日 三十四世良意代
文政元年(1818)大門建立 三十六世良恵代
文政七年(1824)芭蕉句碑建立 木の下は汁もなますもさくらかな 翁
天保十二年(1841)前鐘楼建立 三十七世覚信代
梵鐘は昭和十九年應召、五十年再鋳
明治十六年(1883)大門山号額を高野山円通律寺栄厳和上により揮毫
昭和初期高崎田町より弁天堂移転 五十世良清代
昭和五十八年(1983)本堂建立 11月27日落慶 五十二世良雄代
平成十三年(2001)庫裡・客殿建立 五十三世良弘代
平成二十五年(2013)弁天堂台風により損壊 10月再建
平成三十年(2018)鐘楼修理再建
中興開山より 現住五十三世良弘

寺 宝

五鈷鈴・五鈷杵・金剛盤

ごこれい・ごこしょ・こんごうばん

五鈷杵は大日如来の五智を象徴し、五鈷鈴は妙音を仏様に供養します。金剛盤はそれらを乗せる受け皿で、共に、密教の修法に用います。
これらは中興開山乗弘大徳が入寺の際、両界曼荼羅とともに郷里の筑紫から持ってこられたと伝えられています。


【参考】高崎市ホームページ
  • 指定種別:高崎市指定重要文化財
  • 指定年月日:昭和51年1月14日
  • 五鈷鈴:20(高さ)✕12(柄の長さ)✕8.7(径)センチ
  • 五鈷杵:19(長さ)✕4.5(幅)センチ
  • 金剛盤:21(縦)✕28(横)センチ

「東長大事」一巻

「とうちょうのだいじ」いっかん

「東長大事」とは京都東寺の長者にのみ代々伝えられてきた秘密の教えであり「東寺一の長者の大事」の略称です。この教えは弘法大師を三仏合体の尊格とするもので、真言宗醍醐派三宝院流の義範(1023-1088)を祖師として実運(1105-1160)によって類聚されました。

奥書きによると道順(?-1322)から弘真(1278-1357)に伝授されたものを、康永三年(1344)に英心が伝授されてこれを書写し、それを仙秀が応安五年(1372)に写本したものになります。


【参考】高崎市ホームページ
  • 指定種別:高崎市指定重要文化財
  • 指定年月日:平成4年3月2日
  • 1220(横)✕29.9(縦)センチ 紙本墨書(一部着色)
  • 南北朝時代