For Visitors
境内のご案内
1.本堂
2. 観音堂
4. 弁天堂
5. 大門
6. 鐘楼
7. 少将桜
前橋城主少将酒井忠清公遺愛の枝垂れ桜。公が慈眼寺の桜を愛し、境内地より一株を城内に移植したが何年を経ても一輪の花も持たず、毎夜「慈眼寺へ帰りたい」と公の夢枕に立って泣いたという。そこで公がこの桜を寺に返したところ、寺に戻った桜は他の桜と共に毎年見事な花を咲かすようになったという事である。そこで公はご自身の位階を取ってこの桜を「少将桜」と名付けた。故に別名「夜泣き桜」とも言われる。
詳しくは、少将桜の伝説をご参照ください。
9. 芭蕉句碑
文政七年(1824)三月の造立。高さ3尺2寸。
「木の下は 汁もなますも さくらかな 翁」
元禄三年(1690)刊行の『ひさご』に収められている芭蕉の句である。
10. 江原源左衛門重久の墓
11. 隠れキリシタンの墓
12.永代供養塔「桜華苑」
13. 庚申塔
約100基の庚申塔と諸尊像がお祀りされています。滝川地域のみならず周辺地域の多くの庚申塔を地域ごとに並べ直し、平成二十一年に現在のような形に合祀されました。
詳しくは、庚申塔群についてをご参照ください。
Eternal memorial grave
永代供養墓「桜華苑(おうかえん)」
永代供養墓という選択
現代社会における生活形態の変化は著しく、近年の少子化・核家族化・人口の流動化等の影響により、
これまでのようにお墓を建立しても、将来の維持管理が出来なくなってしまう状況が増えてまいりました。
このような世相の変化の中、慈眼寺では檀信徒の皆様の菩提を末永く安らかに弔うことを願い、
平成17年に永代供養墓「桜華苑」を建立致しました。
これまでのようにお墓を建立しても、将来の維持管理が出来なくなってしまう状況が増えてまいりました。
このような世相の変化の中、慈眼寺では檀信徒の皆様の菩提を末永く安らかに弔うことを願い、
平成17年に永代供養墓「桜華苑」を建立致しました。
末永くお守りいたします
「桜華苑」はしだれ桜のもと、お預かりしたお骨を寺が永代に亘り供養をして参ります。
なお、納骨に際して、今までの宗旨・宗派は問いませんが、慈眼寺の檀家に御入檀いただきます。
- お墓の跡継ぎがいらっしゃらない方
- お墓が無縁になってしまうのが心配な方
- 子どもたちに負担を掛けたくない方
- 生前に自分の墓所を求めたい方
なお、納骨に際して、今までの宗旨・宗派は問いませんが、慈眼寺の檀家に御入檀いただきます。
慈眼寺の永代供養の特長
供養墓内の霊位を 永代にわたり追善供養します。
- 墓所一区画の納骨は、原則としてご夫婦の二霊位を基本とします。
- ご夫婦共に三十三回忌を目途に、供養墓に合葬致します。
- 三十三回忌後、遺骨を供養墓に移した後は、墓碑を取り去り墓所を寺にご返却頂きます。
- 墓所一区画は、分譲(永代使用)ではありません。
- 墓所には骨壺の状態で納骨します。三十三回忌以前であればご移動、ご返却が可能です。
- 供養墓には遺骨を骨壺より取り出して納めます。御骨のご移動、ご返却は出来なくなります。
Koshinto group
庚申塔群(こうしんとうぐん)
百基の石塔
慈眼寺の境内西側、忠霊塔の裏には約百基の庚申塔と諸尊像がお祀りされています。
その多くは江戸時代中期頃から明治時代に建立されたもので、当初よりこの場所に祀られていたわけではありません。
各村々の街道筋に祀られていたものを、明治政府が庚申信仰を迷信と位置付けて撤去を進めたことや街道の拡張整備などを理由に、
ここ滝川地域のみならず周辺地域の多くの庚申塔が慈眼寺に移転されたようです。
鬱蒼とした茂みの中で無造作に並べられていたこれらの塔は、周辺一帯を整備して地域ごとに並べ直し、
平成二十一年に現在のような形に合祀されました
その多くは江戸時代中期頃から明治時代に建立されたもので、当初よりこの場所に祀られていたわけではありません。
各村々の街道筋に祀られていたものを、明治政府が庚申信仰を迷信と位置付けて撤去を進めたことや街道の拡張整備などを理由に、
ここ滝川地域のみならず周辺地域の多くの庚申塔が慈眼寺に移転されたようです。
鬱蒼とした茂みの中で無造作に並べられていたこれらの塔は、周辺一帯を整備して地域ごとに並べ直し、
平成二十一年に現在のような形に合祀されました
庚申塔とは
庚申塔は庚申塚とも言い、中国の道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。
道教の教えによると人の体内には三尸という小さな虫が住んでいて、宿主が死ぬと自由に遊び回れるようになるため、人が早く死ぬのを待ち望んでいると言われています。では三尸は何のために人の中に居るのかと言いますと、この虫は六十日に一度の庚申の日の夜、宿主が寝ている間に体を抜け出して天に昇り、天帝に宿主の悪事を報告する役割があり、そうしてその人の寿命を縮めるのだそうです。そこで人々はそれを避けるために庚申の日の夜に皆で集まり、寝ないで夜通し勤行をしたり宴会をしたりすることで、三尸を体内から出さないようにしようと考えました。この集まりのことを中国では「守庚申」といい、唐の時代の中頃から末にかけて広がったものが日本に伝わり、「庚申待」と名を変えて平安時代に貴族の間で流行しました。民間では江戸時代に入ってから地域で「庚申講」という集まりをつくり、この「庚申待」をする風習がひろまりました。
この集会を三年十八回続けた記念に建立したものが庚申塔(正式には庚申待供養塔)です。
道教の教えによると人の体内には三尸という小さな虫が住んでいて、宿主が死ぬと自由に遊び回れるようになるため、人が早く死ぬのを待ち望んでいると言われています。では三尸は何のために人の中に居るのかと言いますと、この虫は六十日に一度の庚申の日の夜、宿主が寝ている間に体を抜け出して天に昇り、天帝に宿主の悪事を報告する役割があり、そうしてその人の寿命を縮めるのだそうです。そこで人々はそれを避けるために庚申の日の夜に皆で集まり、寝ないで夜通し勤行をしたり宴会をしたりすることで、三尸を体内から出さないようにしようと考えました。この集まりのことを中国では「守庚申」といい、唐の時代の中頃から末にかけて広がったものが日本に伝わり、「庚申待」と名を変えて平安時代に貴族の間で流行しました。民間では江戸時代に入ってから地域で「庚申講」という集まりをつくり、この「庚申待」をする風習がひろまりました。
この集会を三年十八回続けた記念に建立したものが庚申塔(正式には庚申待供養塔)です。
庚申塔を建立した人々
平成二十一年に行われた庚申塔群の整備に際して、石塔に彫られている建立日などの情報を調査した結果、約八十基は施主名と村名を解読することが出来ました。さらにその内の約四十基については現在の子孫に辿り着くことが出来ました。
【地域の内訳】
- 下滝村4、上滝村20、榎町4、下斉田村9、八幡原村5、中島村13、
- 西横手村2、宿横村手1、下大類村3、南大類村3、中大類村1、
- 綿貫村3、柴崎村2、北矢中村1、岩鼻村1、高崎南町1、
- 上ノ手村1、玉村宿1、無記名23
【共に祀られている諸尊像等】
- 地蔵菩薩像3、観音像、馬頭観音4、
- 青面金剛、若宮八幡大神、猿田彦大神、各種供養塔5